2018年9月10日(月)
『生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。』哀歌3章39節
この世は喧騒に溢れています。
飛行機、自動車、犬、ラジオ、拡声器、何やかやが、がなり立てます。
そしてきょうのみことばも、ひとつの騒音を語ります。
音量は測れませんが、その害は他のどんな騒音よりも甚大です。
すなわちその騒音とは、生きている人間のつぶやきです。
聖書はなんと人間をよく知っていることでしょうか。
実際この世は、お互い同士のつぶやきに溢れています。
さて聖書はここにすばらしい提案をします。
「各自が自分の罪のためにつぶやくならば、どうだろうか」。
この提案が多数の拍手で迎えられないことを、預言者は知っていました。
それゆえ、まず互いのつぶやきについて語る前半では、彼は複数で「人々」と呼んだのです。
「人々は、なぜつぶやくのか」。
つまり、人々はいつも団体でつぶやくのです。
旧世代は若い人々のことをつぶやき、またその逆もあります。
有色人は白人を、またその逆も。
雇い主が労働者を、またその逆も。
家主と借家人がお互いに。
人間はいつも団体でつぶやくものです。
「自分自身の罪のためにか」。
さて、この節の後半は「人々」のことを語りません。
人々それぞれの「自分自身」が問題点となります。
「私は罪を犯した」と言う人が出てくるならば、それは全く個人的な決断であり、彼は流れに逆らって泳ぐこととなります。
が、もしも私たちが、そのように言うなら、神は直ちに私たちの側に立ち、悔い改める心のある罪人たちを、イエスにあって受け入れてくださいます。
主よ。
わが目の梁をお示しください。
そうすれば、他の人の目のちりに、不満を言うことはなくなります。アーメン
God Bless You!!
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