2018年8月6日(月)の手紙

2018年8月6日(月)


『エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。』詩篇122篇3節


「まとめ(=集め)られる」ことは、生ける神の教会にとって常に大きな意味があります。

神が与えてくださった最初の律法の中に、すでに「最初の日は、あなたがたの聖なる会合とし…」とあり、また、初代キリスト教会については「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし…」と記されています。

教会史の中に、「集められる」ことの価値を立証したと思われる時代がありました。
ローマ皇帝ディオクレティアヌスは、従来のやり方でのキリスト者迫害を断念します。
そうして、それぞれ個人の信仰に生きてもよいと布告します。
ただし、集まることはまかりならぬ、と付け加えました。

これまで圧迫に圧迫を加えられた教会が、この条件を呑まないはずがあるでしょうか。
ところが長老たちは一致して言いました。
「私たちイエスの弟子にとって、集まることは霊的いのちの一部分です。
私たちとしては集まるほかありません。
死んでよみがえった主への信仰を固くし、互いに訓練し、共に賛美し、祈るために、それは必要です」。

こうして彼らは敢然、皇帝の勅令に抵抗し、かつてない激しい迫害を招きますが、それによってついには勝利し、集められることの価値を立証したのでした。

信仰者たちが集まることは、主の命令であるのみか、喜びであるべきです。
イスラエルの民が神の祭りのためにエルサレムへ集まって来たとき、彼らは歓声をあげつつ「エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている」と、この詩を歌ったのです。

今日、個人的キリスト教というようなもののもてはやされる風潮があります。
それはうまくいかないでしょう。
そんなことをすれば、信仰も愛も死に果てるからです。

主よ。
あなたに仕える喜びを私たちにお与えください。アーメン

God Bless You!!


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