2018年7月25日(水)
『この三人は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。』歴代誌上11章18節
なんと壮大な英雄叙事詩でしょうか。
ダビデ、この内密の王は、追い回され侮られて荒野に生きていました。
彼を慕ってさまざまな人々が集まります。
彼らは、ダビデに王の召命が与えられていることを、すでに知っていたのです。
ある日、ダビデはベツレヘムに思いを馳せます。
そこは彼がかつて羊飼いとして暮らした故郷です。
が、今では異教徒ペリシテ人の制圧下にあります。
「ああ、ベツレヘムの門の井戸水が飲めたなら」。
ダビデの溜息を聞いた三人の従者が、無謀にもペリシテ陣営を突破して、ダビデに一杯の水をベツレヘムから運んで来ます。
彼らは、内密の王ダビデのために、自分を賭けた人々です。
今日私たちは、もうひとりの内密の王を知る者たちです。
彼はダビデの家系に生まれました。
イエス・キリストです。
神はこの方にすべてをお委ねになりました。
が、当時だれが知り得たでしょう。
ゴルゴタの丘で十字架にかかった方を救い主と認める者のみが、それを知るのです。
さてダビデの従者たちは私たちに尋ねます。
「君たちは自分の主人のために何を賭けるのか。
王に水を運ぶため、私たちはいのちを差し出した。
君たちは何を賭けるのか」。
実際、私たちはイエスのために何を賭けるか。
覚悟のないことしばしばです。
この問いは、足腰の弱い私たちのキリスト信仰に対して、的を射た質問ではあり
ませんか。
しかし、主に賭けたという事実を拠り所としないこと。
それも大きな慰めです。
イエスが私たちのためにいのちを賭けてくださった事実を拠り所にしてこそ、私たちは生きるのです。
それにしても、私たちは主のために何を賭けるでしょうか。
主よ。
私たちを惰性から引き上げ、燃える心をお与えください。アーメン
God Bless You!!
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