2018年7月23日(月)の手紙

2018年7月23日(月)


『高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。』列王記下12章3節


これもまた、なんと注意を引く記事でしょうか。

この箇所はイスラエルがいかに宗教的であったかを語っています。
高き所には祭壇があり、香といけにえの煙が立ち込めていました。
これほどにも宗教的な民を、神は称賛なさらないはずがあるでしょうか。

ところがそうではなく、広く行きわたったこの儀式のことを、神は、嫌悪を込めて語られるのです。

どうしてそうなるのでしょうか。
聖なる生ける神にとっては、私たちが「宗教的」であることは重要ではなく、主の備えてくださった道で、神との和解、罪の赦しを見いだすことが大切なのです。

エルサレムの神殿に、朝に夕に犠牲の小羊をささげる祭壇は確かにありました。
そしてこの祭壇こそはあの大いなる、意味深い、決定的な祭壇の、傍証であったのです。

あの祭壇とはゴルゴタの十字架のことです。
そこに死んでくださった方をさして、偉大な神の人、バプテスマのヨハネはこう、叫びました。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。

神の備えてくださったこの真の祭壇を、そして、神が備えてくださったこの真の犠牲を、神の民は求めるべきでした。
自分たちが選んだ犠牲、薫香、宗教。
それらは神の前にだれをも義とすることはありません。

それゆえ私たちには、ただひとつの、神が備えてくださった、いのち、和解、救いへの道があるのみです。
ゴルゴタのイエスの十字架です。

しかしこれは確かな道です。
この道は真に人を義とします。
この道を通って、人は確かに目的に到達するのです。

主イエスよ。
あなたが十字架で死なれたので、私たちはあらゆる宗教的曖昧を捨て去り、神との平和を得ることができました。
感謝いたします。アーメン

God Bless You!!


a:160 t:1 y:0