2018年7月22日(日)の手紙

2018年7月22日(日)


『アハブは王宮をつかさどるオバデヤを呼び寄せた。オバデヤは非常に主を恐れていた。』列王記上18章3節


偶像につくアハブ王の、信仰あつい宮内長官オバデヤ。
これは彼についての注目すべき記事です。

「オバデヤは… 主を信じていた」と書くのが当然です。
が、そうではなく、「主を恐れていた」とあります。

信じることと、恐れること、どちらがまさっているのでしょうか。
恐れるほうが、一般的また表面的に「信じる」と呼ぶことよりも、まさっていると、私は思います。

多くの人々が神を信じると言うでしょう。
が、彼らは神を恐れたことがありません。
神を恐れる人とは、聖なる臨在に触れた人です。
それは、神ご自身が圧倒的な聖さをもってその人にお会いになる場合のことです。

神を恐れる人とは、神を真剣に受け止める人です。
そうすると、恐れに留まることはできません。
彼は必ず、「どうすれば聖なる神と和解できるだろうか」と問い始めます。

ある若者がひとりの娘と親しくなりました。
彼の愛は真剣で、結婚を考えたほどでした。
けれども彼女は遊びだったのです。

彼は尋ねました。
「教えてくれ。
君はぼくを愛しているかい」。
すると娘は笑って、「男は、いつも大まじめでばかなことを言うのね」。

それで彼は言いました。
「君のことをまじめに考えるから、聞いているのだ。
ただの遊びだと思えば、君の考えなど聞きもしないよ」。

神についても同じです。
まじめに受け止める人だけが結局は、神が彼をどうお思いになるのかを知ることになります。

十字架のイエスを鮮やかに示された人だけを、神はまさに子どもとして扱ってくださるのです。

主よ。
すべての知識の初めであるあなたを、私たちにお示しください。アーメン

God Bless You!!


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