2018年7月1日(日)の手紙

2018年7月1日(日)


『神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。』出エジプト記2章24節~25節


私たちの祈りはなんと大きな働きをすることでしょう。

イスラエルは奴隷の悲惨を生きていました。
苦しみは言語に絶し、彼らの存亡が危ぶまれました。
そこで民は、真に生ける救い主である神に心を向け始めます。

「彼らの労役の叫びは神に届いた」と記されます。
するとこのことが起こるのです。
聖書の記事からは、その慌しさが伝わってきます。

まるで記者は神の憐みを示す適切なことばが見つからないかのように、「神は聞かれ、契約を思い起こされ、ご覧になり、みこころを留められた」と語りました。

これは私たちの注意を引く表現です。
聖書は一般にことばを節約するので、もう少し詳しく聞きたいとしばしば思わせるものです。

例えば私たちは十字架上の盗賊がイエスを信じたときの心境を知りたいと思いす。
木に登ってまでもイエスを見たいと思ったザアカイの場合もそうです。

が、聖書はそれを語ろうとはしません。
ただ僅かなことばで、必要最小限を伝えるだけです。

昔エーンハウゼンでは、薬効のある温泉を求めて、あちらこちらで試掘が行われました。
ある日人々はついにひとつの泉を掘り当てました。

が、それが突然、猛烈に湧き出したので、設備はすべて吹き飛ばされ、人々は驚いて逃げ出しました。

困窮する心が呼ばわり、溜息をつき、叫ぶと、神の憐みの泉は猛然と湧き出します。
神は聞き、契約を思い起こし、ご覧になり、悲惨を心に留めてくださいます。

この泉は御子の十字架上に残りなく溢れ出しました。

パウロも言います。
「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」。

主よ。
憐みの主を無視し、自分でやっていこうとした私たちをお赦しください。アーメン

God Bless You!!


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