2018年6月6日(水)の手紙

2018年6月6日(水)


『たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。』コリント人への第一の手紙13章3節


この箇所の本来の意味は、「すべての持ち物をむだに費やす」ということであり、つまり「手当たり次第に飢えたる口に詰め込む」ということです。

そんなことであるならば、四方八方からそれは「愚かなことだ」、「話にならない」との声が上がるでしょう。

さてパウロがこのように書き送ったコリントでは明らかに、イエスのゆえにすべてを人に与えるべきかどうかが、問題になっていました。

だからこそ、これに続いて、「イエスのために殉教者として私のからだを焼かれるために渡」すことが語られ、コリントのキリスト者にはすでにその覚悟があったことを、パウロは誤解の余地のない明瞭さをもって記しているのです。
事実、そのような危機は彼らにとって身近なものでした。

彼らはなんと輝かしいキリスト者の心を持っていたことでしょう。
ゴルゴタのイエスこそが彼らにとってこよなく大切であり、彼らは善なるもの、いのちなるものに対して、惜しみなく自らをささげることができたのです。

にもかかわらず… この人たちをさして、パウロは言います。
「愛がなければ、何の役にも立ちません」。
何というひどい言い方でしょうか。

しかし聖書は言います。
たましいなきからだは、死んだものであり、同じように、たましいなきキリスト者生活は、死んだキリスト者生活である。

からだをきれいに飾ることはできるし、信仰生活を立派に装うこともできる。
しかし、それが死んだものであるならば、何の値打ちもない。
そして、信仰生活のたましいとは愛であり、愛こそがすべてを生かすのだと。

主よ。
聖霊によって、私のうちに、あなたへの愛と、あなたがお与えくださった人たちへの愛とを、働かせてください。アーメン

God Bless You!!


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