2018年6月17日(日)
『愛は… 礼儀に反することをせず…。』コリント人への第一の手紙13章4節~5節
「礼儀に反すること」とは何であるのかを、私は小さな子どもから学びました。
両親に連れられての散歩中に、彼は何かが飲みたいと言って泣き出しました。
父親が子どもを売店に連れて行く。
すると突然、のどの渇きはなくなって、何かを食べたいと言い出す。
そうしてパンを買ってもらう。
ところがこんどは、もう歩けないと言ってぐずる。
父親が背中におぶってやると、降りたいと言う。
降ろしてやると、地べたにひっくり返ってわめく。
とうとう子どもはおしりをぶたれることになりました。
彼はわけもなく泣き叫んだのです。
ところで残念なことに私たちは、このようなわがままは子どもだけのことで、自分には関係がないと思います。
あるいは「礼儀に反すること」は、すべての人の生まれつきの抜きがたい性質だと考えて、安心してさえいます。
なんと私たちはお互いに、気まぐれ、要求、願い、非難などで苦しめ合うことでしょうか。
ダビデ王について聖書にこんなことが書いてあります。
彼がまだ逃亡の日々を送っていたころ、ある日、故郷ベツレヘムの井戸の、あの澄んだ水が飲みたいという無茶な欲望におそわれます。
三人の勇士がいのちを賭けて敵陣に侵入し、水を手に入れてダビデのもとに持ち帰ったとき、ダビデはようやく自らを深く恥じ、貴重な水を飲もうとはしませんでした。
神の人ダビデでさえもがこのようであったとすれば、私たちの無作法はどんなことになるでしょうか。
この性格を癒すのには、ただひとつの荒療治あるのみです。
私たちは、生まれながらの性質をイエス・キリストとともに十字架につけていただくことができるのです。
そうするならば、神の愛が聖霊によって私たちの心に注がれます。
この力強い霊的な愛はもはや「礼儀に反する」ことはしません。
主よ。
聖霊によって私たちを、私たち自身から救い出してください。アーメン
God Bless You!!
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