2018年6月16日(土)の手紙

2018年6月16日(土)


『愛は… 高慢になりません。』コリント人への第一の手紙13章4節


このみことばは、生まれながらの私たちの性質をなんと手きびしく言い当てていることでしょうか。

そうです。
私たちはまるで、食用蛙のようにふくれあがる忌まわしい性質を持っているのです。

二組の夫婦が休暇のみやげ話をするのを聞いたことがあります。
「私たちはノルウェーへ行きました」。
すると「私たちはエジプト。ノルウェーは気候が不順ですから」。

子どものころに、ほら吹きの女の子の話を読んだものです。
「フンだ、うちにお客が来たよ」
「いったいだれなんだい」
「教えてあげないよ。ハーバーシュトローおばさんよ。
知らないくらい遠くに住んでいて、絹の着物を着ているのよ。
それに縁飾りがしてあって、きれいな首飾りをつけちゃって、ビロードのマントをかぶってさ…」。

私たちも全く同じようなものです。
自分の生活に飾り窓を付けて、そこから人々がのぞき込んで、私たちの立派さに目を見張るようにしたい、と思うのです。

私たちは、他人よりも抜きん出たいと願います。
若い人は力を、年寄りは苦労を、それぞれの自慢の種にします。

「愛は高慢にならない。
このようなきよい愛を持つためには、私たちは内的な大変化を通らなければなりません。
「高ぶりの欲」は神の前に罪だということが、明らかにされなければなりません。

そうしたのちに聖霊が私たちの内に住んでくださるようになり、そのときに初めて私たちは、「互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」というパウロのことばがわかるようになるのです。

ある祝福されたキリスト者の埋葬にあたって、ひとりの人が言いました。
「彼と一緒にいるのは楽しいことでした。
彼は決して自分を人よりも上に置こうとせず、いつも謙遜であったからです」。

主よ。
私たちの転倒した、ふくれあがった性格を滅ぼし尽くしてください。アーメン

God Bless You!!


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