2018年5月4日(金)
『あなたは死人のために奇しいわざ行われるでしょうか。』詩篇88篇10節
これは、神が本当におられることを発見した人のことばです。
彼は今、神がどんなお方であるのかを知ろうとして、まっすぐに神に近づきました。
そして驚くべき諸発見をするのです。
その発見に対して、彼の理性は繰り返し抗議します。
「そんなことはあり得ない」と。
「あなたは死人のために奇しいわざを行われるでしょうか」。
こう尋ねると、理性がすぐさま言い返します。
「そんなことはあり得ない。
死が語られるところでは、神でさえも何もできない」。
そう言いつつ、人はまた、理性も当てにはならないと感じるのです。
「ひょっとすれば、神は死人のために奇しいわざを行われるのではないか」。
そうです。
神は死人のために奇しいわざを行われます。
「終わりのラッパ」が鳴り、主が死人を墓から呼び出してくださるとき、私たちはみな、それを見るのです。
墓地を訪れるたびに私は考えますが、もしも「墓から出て来なさい」と呼ばれたなら…。
あるいは、詩人・彫刻家のバルラハが戯曲の中で、「死者よ、出て来い。腐敗は口実にならないぞ」と叫ばせていることが現実となれば。
いったいどういうことになるでしょうか。
神は「死人のために奇しいわざを行われ」ます。
事実、神はそれをなさいました。
神が御子を墓から呼び出し、兵士たちがそれを防げなかった、イースターの朝にです。
神は「死人のために奇しいわざを行われ」ます。
そして世には霊的な意味での死人もいます。
神については全く無関心で、また、祈りに対しても何の期待も持たず、聖書ほど退屈なものはないと思う人たちです。
神がもしも、このような死人を聖霊によって目覚めさせ、神からの義を渇き求めさせなさるならば、それは何と晴れ晴れしいことでしょうか。
主よ。
いのちの君、死の征服者よ。
わが内なるいっさいの死を克服してください。アーメン
God Bless You!!
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