2018年5月17日(木)の手紙

2018年5月17日(木)


『私の心には、思い煩いがいっぱいでした。しかし、あなたの慰めが私のたましいを喜ばせました。』詩篇94篇19節


この「しかし」の、なんというすばらしさ。

この「しかし」が、信仰と不信仰とを区別するのです。
神の子どもたちも「心に多くの思い煩いがある」点では、世の人々と同じだからです。

主がご自分の民にだけ思い煩いを免除するとは、聖書のどこにも書いてありません。
逆なのです。
旧約の神の民がエジプトを出た時、彼らは恐ろしい荒野を通らされました。
間もなくパンが、間もなく肉が、なくなります。
水もなくなります。
ようやく見つけた泉の水は、苦くて飲めませんでした。

まったく同じことを使徒たちも経験しました。
彼らは湖の真ん中で嵐に遭います。
また別の時には、不漁の惨めさを味わいました。

世の憎しみに耐え、内輪の裏切りを忍ばなければなりませんでした。
事実、主もあるとき「あなたがたも、今は悲しみがある」と憐みを込めて言われました。

おそらく、この状態はほとんどよくはならないでしょう。
「私の心には、思い煩いがいっぱいでした」。

が、もしも私たちの人生にあの美しい「しかし」が立っているならば、私たちは「あなたの慰めが私を喜ばせました」と言えるのです。

しかしこの慰めは、漠然とした当てにならないことではありません。
慰めはすべてイエスの十字架から来るのです。

それゆえ、私たちは神と和解した者であり、いかなるときも神の子どもであることに変わりはない、と言い切ってよいのです。

私たちは、罪が赦されていることを体験できます。
罪の赦し、それは、私たちの考え得る最大の慰めです。
ここに私たちは、ご自分の御子を世に送ってくださった神の、測り知れない愛を見いだします。

神はなんと深く私たちを愛されることでしょうか。

主よ。
私たちは思い煩いをかこつのではなく、あなたの慰めをたたえます。アーメン

God Bless You!!


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