2018年4月9日(月)の手紙

2018年4月9日(月)


『「…あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。…」 そこで、彼女たちは… 弟子たちに知らせに走って行った。すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。』マタイによる福音書28章7節~9節


なんという気の毒な御使いでしょうか。
あのイースターの朝、彼はおそらく大喜びで、哀れな落胆した女性たちに「イエスは生きておられる」と、輝かしい知らせを伝えたことでしょう。

そして、たった今、彼は神の委託どおりに、「ガリラヤへ行きなさい。そこで復活の主にお会いできる」と命じたのでした。

それは実に明確な告知でした。
が、そのとき主イエスは御使いのすぐ後ろにいて、数歩先で女性たちにお会いになります。

主が御使いの知らせを、気にも留めずに反古にしたのは、何か事情が変わったからですか。

いったい何が起きたのでしょうか。
私が思うのに、それについての説明はひとつあるのみです。
主イエスの性急さです。
狼狽し困惑し切った女たちに、喜びと、慰めと、いのちをもたらすためでした。

救い主は弟子たちに対して切なる思いを寄せ、そして… こんな言い方が許されるならば… 筋書きをみな投げ出して、哀れな弟子たちに姿を現してくださったのです。

こうして復活の主が、御使いを不当な立場に立たせてしまわれたことは、次の詩の注釈ともなるでしょう

「それは永遠の憐み、すべての思いをはるかにしのぐ。
それは広げた愛の腕、罪人に近づく方の」。

人間の使いならば、命令を受けたすぐあとで、その上司がそれを無視すれば、彼は怒り出すことでしょう。

が、御使いはイエスの性急さと愛とを喜んだに違いありません。
私たちもまた、それを喜び、こう祈りましょう。

主よ。
私たちに対する、押し迫るあなたの愛を、心から感謝いたします。アーメン

God Bless You!!


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