2018年4月8日(日)の手紙

2018年4月8日(日)


『来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。』マタイによる福音書28章6節


金持ちのアリマタヤのヨセフの庭です。
よく手入れがしてあります。

が、ひとつの場所だけには、むなしさが漂っています。
それは空になったイエスの墓であり、主は「ここにはおられません」。

イエスがおられないならば、この世のすべての美しさを掻き集めても、私たちの心のむなしさは癒されません。

空虚な墓穴。
そこには、イエスのなきがらを包んだ布が残されました。
なんという形見の品でしょう。
が、弟子たちはなぜ、この宝を自分のものとしなかったのでしょう。

人の心は、イエスの形見の品や思い出によっては、慰められないからです。
主ご自身をこそ、心は慕うのです。

墓の回りには、見るべきものがたくさんあります。
「何かが起こった」とだれもが思いました。

あわてた兵士らは駆け回ります。
イエスの弟子たちは先を争って駆けつけます。
女たちは香油のびんを放り出し、驚いて逃げ帰ります。

御使いが現れて、人々に話しかけもしました。
確かに「何かが起こった」のです。

空虚なその場所はそのまま残されています。

あの方、イエスが「ここにはおられない」からです。
イエスがともにおられないならば、どんな感動も空虚でしかないのです。

墓穴の前でイエスのことを話す人たちがいます。
女たち、弟子たち、御使いが、それぞれに。
が、イエスご自身はそこにおられません。

私たちは神の奉仕者としてイエスについて語るのに、主ご自身はここにおられない。
そんなことがあるのだと思い至るとき、私たちの心は恐れおののきます。
語ることばのすべてが無意味で、渇いたたましいはそのままに捨ておかれるからです。

さて、学者、文化人の委員会が墓の調査に乗り出したかもしれません。
が、イエスは「ここにはおられません」。

主ご自身が私たちにご自介を現してくださらない限り、どんな知性も、空をつかむだけなのです。

主よ。
私たちはあなたご自身を求めます。
あなたを必要とします。アーメン

God Bless You!!


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