2018年4月22日(日)の手紙

2018年4月22日(日)


『夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。』ヨハネによる福音書21章4節


ゲネサレ湖に朝日がさし始めます。
静かな自然を愛する人々には、それは壮大な光景です。

ハンス・リルイェはこの箇所を注解して、その湖を「光る宝石」と呼びました。
また、きょうのみことばの、その瞬間をこう説明しています。
「テベリヤ湖(ガリラヤ湖)に朝日がさし込むとき、岸辺の山々に、また銀色の水面に、黄金色の光が注がれる」。

しかし、どのような自然の美をもってしても、悲しむ心、痛む良心は慰められません。
心に痛手を負うとき、「自然の中に神を」捜し出すことはもはや困難です。

ペテロとその仲間とは、このことを、いやというほど思い知りました。
彼らはまったく途方に暮れています。
昨晩は、夜通し骨折って働きつつも、何ひとつとれなかったのです。

そうです。
今や自然の美しさも、慰めとはなりません。
悲しむ心には、自然はただ白々しいものです。

しかし、その朝、湖の岸辺にひとりの方がお立ちになりました。
打ち砕かれた人々にとっての、まことの慰め主、まことの人、すなわち復活の主イエスです。

弟子たちには「それがイエスであることがわからなかった」。
彼らは、自分たちの知り尽くしている詩篇の一節がその身に実現するとは、考えもしなかったのです。
「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられる」。

けれども彼らは間もなく、このみことばの後半をも体験することになります。
「(主は) 霊の砕かれた者を救われる」。

あの朝以来、時は流れました。
が、同じ経験を、この朝、私たちも持つことができるのです。

主よ。
失われたものを捜し出してくださることを感謝いたします。アーメン

God Bless You!!


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