2018年4月11日(水)の手紙

2018年4月11日(水)


『使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。』ルカによる福音書24章11節


これは私たちにとっても大切な場面です。
最初のイースターの朝早く、弟子たちは戸を閉ざして息をひそめていました。

激しく戸を叩く音に、みんなは一瞬、息をのみます。
大祭司の捕縛隊だろうか。
主が十字架につけられたうえに、自分たちも同じ目に遭うというのか。

ノックは一段と強くなります。
女性の声が聞こえます。
弟子のひとりがそっと戸を開けました。
そこには、よく知っている女性たちの顔が並んでいました。

興奮した女たちが叫びます。
「イエスの墓が空です。御使いが、主は生きておられると言いました」。
「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われた」というのです。

私はこの場面を想像します。
ヨハネが軽蔑の笑いを浮かべて「また女性のおしゃべりか」と言います。
マタイは耳をふさいで「ばかな話をして、私たちの苦しみを茶化すつもりか」と言い、ペテロは立ち上がると、女性たちを外に締め出してしまいます。

この知らせを耳にすると、知性は必ずそのような反応を示すものです。
「人がよみがえる。
でたらめもよいところだ」。

こうして、かわいそうな女性たちは戸の外に締め出されてしまいました。
彼女らはうちのめされて、しょんぼりと立ち去ったでしょうか。

正直に言って、キリスト者は時に、人々が知性を根拠に福音を拒むと、萎縮し、狼狽するのです。

けれども、私は確信しますが、女性たちは笑いました。
「イエスさまが生きておられるのを本当に見たならば、この人たちも驚くことでしょう」。

彼女らの笑いは勝利を表しました。
そしてイエスの弟子である者はみな、ベンヤミン・シュモルクの詩のように歌い、信じることができるのです。
「義しき者の住み家には、早や勝どきが鳴り渡る…。」

主よ。
目の開かれていない世にあって、私たちにいつも確信をお与えください。アーメン

God Bless You!!


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