2018年3月7日(水)の手紙

2018年3月7日(水)


『そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。』ヨハネによる福音書19章1節


利口な人はしばしば妥協の道を選びます。
壁に向かって頭から突進する人は、愚か者ということになります。

ローマ人ピラトは愚か者ではありませんでした。
いかに駆引きにたけた者であるかを、あの受難日の朝、彼は人々にまざまざと見せつけました。

被告イエスには明らかに何の罪もありません。
「無罪」の判決が下って当然でした。
が、外では群衆が「十字架につけよ」と叫んで荒れ狂っています。

このようなときに、どう対処するのがよいか。
ピラトは実に無罪と死刑の中間を採りました。
イエスを鞭打ちで済ませようとしたのです。

それの何が悪かったのですか。
確かに、私たちのだれもが、常に妥協の道を選ぶのです。

そうです。
それが私たちのやり方です。
が、ピラトは、私たちみんなが必ず知らなければならないひとつのことに気づきました。
すなわちイエスには逆に、妥協というものがまったくないということです。

主には、世の賢さは通用しません。
イエスにおいて現された神の啓示には、ただひとつ明白に決定的なことがあります。

使徒ヤコブはそれをこの上もなく明瞭に語りました。
「世を愛することは神に敵すること」。

そして主イエスご自身も言われました。
「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者… です」。

使徒パウロは、キリスト者とは神が「暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配に移してくださった」者のことだと言いました。

明確な表現です。
救われるか、暗やみの圧制下にとどまるか。
妥協の余地はありません。

結局は、ピラトは妥協を続けることができずに、イエスに死刑を宣告しなければなりませんでした。
こうして彼は、使徒信条に不正な審判官として名を残すことになります。
半分だけイエスにつく者は、イエスの敵になるほかないのです。

主よ。
あなたのために真に大胆に振舞う勇気をお与えください。アーメン

God Bless You!!


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