2018年3月6日(火)の手紙

2018年3月6日(火)


『そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。』ヨハネによる福音書19章1節


むち打ちにして卑しめるため、人をそこに縛りつける杭のようなものは、いつの時代にもありました。
ピラトの法廷にも、またドイツの強制収容所にも、それはありました。

神の御子がそのような杭に縛られるのです。
しもべたちがむごい作業をやってのけるのを、私たちは直視できません。

しかし目をそらすだけであってはなりません。
むしろ同じことをしないよう、心すべきです。
私たちの救い主、神の御子イエスを縛りつける、などということをしないように。

しかし、この私たちがそんなひどいことをするでしょうか。
そうです、するのです。

私たちは教会を鞭打ち用の杭にして、そこに主イエスを縛りつけます。
主はそこから一歩も動くことができず、私たちの日常生活や、家庭、職場、政治の場に出て来ることができません。
それで私たちは彼なしに平気で過ごすのです。

当時エルサレムにあったローマの法廷ではどうだったでしょうか。
そこでは人間が勝ち誇りました。
そして、イエスは縛られます。
主は言い知れない苦しみをなめられるのです。

これはそのまま今日のヨーロッパの姿ではありませんか。
これはそのまま今日の日本の姿ではありませんか。

人間を重んじ、人間を尊しとする。
そしてイエスを苦しめるのです。

個人の生活においても、確かに私たちは主を縛りつけています。
主をよく知っている私たちが、あまりにもしばしば彼を縛りつけて、私たちに干渉するのを拒むのです。
自分の心のままに欲望を遂げようとするときには、私たちはいつもそうするのです。

イエスを解き放ち、この方に、次のように祈ろうではありませんか。

主よ。
私を縛ってください… あなただけにできる方法で… 私をあなたの愛につなぎとめてください。アーメン

God Bless You!!


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