2018年3月3日(土)の手紙

2018年3月3日(土)


『それから、イエスを縛って連れ出し…。』マタイによる福音書27章2節


なんという愚かなことでしょうか。
イエスを縛った縄、それは全くこっけいな代物というほかありません。

一言で湖の嵐を静めた方、一言でラザロを死の縄目から解き放った方、悪霊どもを制する、力ある方。
このイエスを数本の縄で拘束できるとでもいうのでしょうか。

この縄は、人々が今日に至るまで神の御子の力に対して持っている、大きな思い違いを表しています。

しかし、なぜ主はこんなにもおだやかに縛られたのでしょうか。
なぜ主は縄目を引きちぎって、反対者の足もとに投げつけてくださらなかったのでしょうか。
そうすればどんなに胸が晴れたことか。
なぜそうなさらなかったのでしょうか。

それは主が十字架に引かれて行こうと心に決められたからです。
主イエスは、数百年前に預言者イザヤが予告したとおりの方でした。
「彼は… ほふり場に引かれて行く羊のように… 口を開かない」。
「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし…た」。

主イエスがこのこっけいな縄目をお受けになったのは、ご自分でそうしようと心に決められたからにほかなりません。
人々が押しかける前のひととき、主は静かなゲッセマネの園で御父に向かって言われました。

「飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください」。
こうして主は苦い杯を飲みほしてくださいました。

十字架の死が、この世のためにどれほど必要であるかをご存じの主は、自ら両腕を差し出して縄をお受けになったのです。

主よ。
私たちの目を開いて、贖いのみわざを悟らせてください。アーメン

God Bless You!!


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