2018年3月19日(月)の手紙

2018年3月19日(月)


『イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。』マルコによる福音書15章26節


至る所に看板が目につきます。
「シトロンはいかが」「紳士靴なら○○」。

このような看板のない時代に、神の御子の十字架に取り付けられたその板は、大評判になりました。
そこには「処刑の理由」が明記してありました。

これはいわば告訴状です。
あきれた話ではありませんか。
人間が自分の主であり神である方を訴えるのです。
しかも、それは今日でも行われています。

例えば私は、こんな訴えを数え切れないほど聞きました。
「神はなぜとめてくれなかったのですか」。

さて事実、神と私たちとの間には一通の告訴状があります。
しかもそれは神の手に握られて、私たちに向かって差し出されているのです。

いちど私は、その告訴状を想像したことがあります。
ありとあらゆる私の罪が並んでいました。
不敬虔、汚れ、怠慢、冷淡、罪、また罪。
まさに、それは私に対する告訴状でした。

ところが、近寄ってよく見ると、なんと「神の御子イエスへの告訴状」とあるではありませんか。
私の咎が、みな彼に負わされていたのです。

私はたちまちイザヤ書53章の、あの不思議なみことばを理解しました。
「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」。
「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらした」。

このことを信じる人は、慰めを得て喜び、こう歌います。
「証書は破り捨てられた。支払いは済まされた」。

主イエスよ。
私たちの身代わり、救い主よ。
感謝いたします。アーメン

God Bless You!!


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