2018年3月16日(金)
『「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。』ルカによる福音書23章33節
小さい子ども連れのお母さんが訪ねて来ました。
「握手のお手々は」とお母さんが促すと、坊やは私に左手を出しました。
すると、お母さんは賢い人で、笑いながら言いました。
「左手は心につながっていますわ」。
右手よりも、左手は心臓に近い、というのでしょう。
私はいつか、主の左手が演じた役割は、と考えたことがあります。
そうして発見したのですが、主が特別に愛を込めて何かをなさるときには、いつも左手が動いていたのです。
人々が子どもたちをみもとに連れて来ると、主は右手で彼らを祝福し、左手で抱き寄せてくださいました。
弟子たちの足を洗うときに、主は右手に海綿をにぎり、左手で弟子の疲れた足を支えてくださいました。
主は右手でしるしや奇蹟を行われましたが、愛を表すには、左手が伸ばされなければなりませんでした。
主が両手を広げて、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」と叫ばれたときもそうでした。
ゲッセマネの園で、弟子たちをかばって両手を広げ、「この人たちはこのままで去らせなさい」と役人たちに言われたときも、やはりそうでした。
イエスの左手は確かに「心につながって」います。
その左手が釘付けられようとしているのです。
愛の証拠である両手が、残酷な犬釘にむなしく勝ちを得させる…。
それは本当でしょうか。
神に感謝すべきことに、本当ではありません。
まったくの逆なのです。
一見無力と映るその瞬間にこそ、イエスの御手は最大の愛を行使します。
それを理解したある人が、こう歌いました。
「かかるわが身を贖わんと、主はそのいのちを注がれた。
敵であった者のため」。
主イエスよ。
惜しみない愛を感謝いたします。アーメン
God Bless You!!
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