2018年3月11日(日)の手紙

2018年3月11日(日)


『そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。』ヨハネによる福音書19章13節


イエスは、すべての人から見える高いテラスの上に立っておられます。
よく考えれば、それは時代を超えて全世界の人々の前に立つことです。

では、人々は何と言ったでしょうか。

「除け。除け」。
これは自分を義とする人々の叫びです。
「彼の話は『恵み』と『赦し』のひとつ覚えだ。
そんなものには用はない。
私たちは正しいのだから」。

「私たちは彼が好きになれない」。
罪人たちが言います。
「彼が口を開くと、いつも決まって『悔い改め』と『方向転換』だ。
それが気にくわないのだ」。

「イエスか。お笑いだね」。
理想家たちの声です。
「彼の救いは弱者対応だ。私たちには奮闘努力あるのみ」。

「ああ、やめてくれ」。
知識人は背を向けます。
「『神の子』だなんて、あり得ないよ。それは私たちの思考体系におさまらない」。

愚か者はがなりたてます。
「イエスのことは話すな。
あんな者に関わり合えと言うのか。
考えただけでも図々しい注文だ」。

宗教家は言うでしょう。
「イエスですか。私たちは神を信じるのです。
なぜイエスが必要なのですか」。

政治家も言います。
「国民のためにはそれも大いに結構なことだが、私たちの仕事向きではない」「イエスには何の力もない。政治の世界は力なのだ」。

さまざまな見解は果てしなく続くことでしょう。
イエスを法廷に立たせて。

では、味方の声は聞こえないのでしょうか。
聞こえます。
十字架上の盗賊と、取税人ザアカイと、その他の人々です。
彼らは砕かれた心と、安らかではない良心とをもってイエスを仰ぎ見、救い主を喜び、かつ信じるのです。

主よ。
あなたを告白する人々の中に私たちをお加えください。アーメン

God Bless You!!


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