2018年3月1日(木)の手紙

2018年3月1日(木)


『すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて…。』マタイによる福音書26章65節


美しい装飾を施した衣であるのに、なんともったいないことでしょうか。

おそらく大祭司はこの衣を着て幾たびも神殿内を闊歩したことでしょう。
そんなとき、「自分は神と人とに喜ばれている」と思ったに違いありません。

私たちはこの人に似てはいないでしょうか。
神に気に入られているといううぬぼれが、私たちになくはありません。
見えない晴れ着を身にまとうのです。
それを聖書独特の表現では「自分の義」の衣と呼びます。

私たちは知らなければなりません。
この装いは自分の目に美しく見えるにすぎないのです。
神の目にはそれは「不潔な着物」だと、聖書は語ります。

自分の義の衣を引き裂きましょう。
もしも私たちがこのようにして、神の前に貧しく、ありのままに、失われた罪人として立つならば、主イエスは、一人一人に新しい衣を着せてくださいます。
主が十字架を賭して与えてくださった、恵みによる義です。

ある日、ひとりの人と同席することがありました。
彼は不治の病に冒されていました。
私は、彼が青少年への伝道に尽力したことを、たたえました。
私財を投じて、きれいな少年村を開き、力も時間も若者たちにささげたことを言ったのです。

すると彼は、さえぎるように手を振って、言いました。
「哀れなる罪人がひとり来る、贖いの代価のゆえ、救われたに過ぎず」。
その時、私は、ひとりの人が自分の義という美しい衣を引き裂いて、イエスが与えてくださった恵みの衣を、信仰によって身にまとう姿を見る思いがしました。

預言者イザヤは言います。
「わたしは主によって… 喜ぶ。
主がわたしに、救いの衣を着せ… てくださるからだ」。

主よ。
恵みの衣で御前に立つことができます。
信仰によって、この衣を受け取ります。アーメン

God Bless You!!


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