2018年2月24日(土)
『ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まで入って行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。』マタイによる福音書26章58節
イエスの受難を見物するひとりの男ペテロ。
イエスご自身は真夜中の暗いゲッセマネの園で捕らえられ、引いて行かれました。
荒々しかった場面は芝居のように転じて、次の場面を迎えています。
そしてペテロは見物人となって中庭に入って行きます。
今日に至るまで、彼のほかにも多くの見物人が登場しました。
彼らは多かれ少なかれ、この先輩と同じ心境の持ち主です。
さてペテロの思いは何であったでしょうか。
彼は、「成り行きを見ようとした」のです。
が、まだそれを見届けてはいません。
イエスの逮捕に始まったひとつの事件は、今日に至ってもなお終わっていないからです。
イエスは十字架にかけられ、葬られ、よみがえり、父の右の座に着かれました。
以来ずっと父なる神は今もなお、聖霊によって、失われた罪人たちを御子のもとに引き寄せ続けておられるのです。
このことは、永遠の救いを受けた私たちが「神の小羊」を賛美する、新しい天地が始まる日まで続きます。
さてペテロは「成り行きを見届けなかったばかりか、突然、事件に巻き込まれてしまいます。
兵士たちに胸倉をとられて、自分の救い主を否定し、こうして自分が完全に失われた者になったことを、彼は悟るのです。
そののち復活の主が、十字架は罪人の贖いのためだと彼に示してくださると、彼はそれを信じて、十字架にかかった方の証人となりました。
もはや彼は見物人ではありません。
彼は共にあずかる者となり、ついには彼自身、十字架にかけられて死ぬことになります。
イエスの受難は、だれにも傍観者となることを許しません。
ペテロのように踏み出さないならば、私たちは頑なな者となるでしょう。
どちらにしても、私たちの上に、内に、何かが起こるでしょう。
主よ。
あなたの死を、私たちのいのちとしてください。アーメン
God Bless You!!
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