2018年2月21日(水)の手紙

2018年2月21日(水)


『それからイエスは弟子たちといっしょにゲッセマネネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」…イエスは悲しみもだえ始められた。』マタイによる福音書26章36節~37節


どんな人にも、いつかは「ああ、自分は死ななければならない」と、おののきつつ思う日がやって来ます。
死の恐怖が振りかかる瞬間です。
主イエスはあのゲッセマネで味わい尽くされました。

イエスは「もだえ始められた」。
原語では、人が突然なにかぞっとするものを見るという場合のことばです。
あの夜の時間に、イエスは確かに恐ろしいものをご覧になりました。

死です。
たましいが肉体のなわめを解かれるという、いわゆる「甘き死」ではありません。
そうです。
主は本当の死をご覧になったのです。
まさしく聖書の言うとおりの、「罪の報酬」である死でした。
神のさばきの剣でした。

主は死をご覧になりました。
死の力を持つのは悪魔です。
死は、堕落した人類への神の呪いです。

主はこの恐怖の王をご覧になりました。
この本当の死を見て、主は「もだえ」られたのです。

しかしいったいなぜ、聖なる神である御子が、そのような死に関わるのでしょうか。
聖書の使信を聞く時にだけ、私たちはそれを理解するようになります。

なわち、主は私たちのために代理人として苦しみを受けられたのです。
ゲッセマネで死と格闘されたのです。
その結果、私たちは死の恐れから解放され、救われ、平安のうちに死んで、御父のもとに行くことができるのです。

死を身に帯び、死に定められた私たちが、この死からの救い主を心から求めないわけがあるでしょうか。

主よ。
私たちがいのちを持つために、あなたは死の恐怖を味わってくださいました。
「主よ、死の御苦しみをこの身にも、無駄としないでください」。アーメン

God Bless You!!


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