2018年2月19日(月)の手紙

2018年2月19日(月)


『それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。』ヨハネによる福音書13章5節


ドイツでは、どこの市にも紋章があります。
さて、もしもキリストの教会に紋章を制定するなら、たらいを図柄に採用すべきです。
浴室が一般化して、たらいというものが姿を消した今日、それが時代錯誤だと言われても、そうすべきです。

神の御子が両手にされたたらいは、イエスの基本姿勢を示しています。
つまり主は仕える者となられたのです。

ある人が言いました。
「仏教徒でも、回教徒でも、キリスト教徒でも、結局は同じことだ。
その人が誠実でありさえすればよいのだ」。

私は答えました。
「それは君がキリスト者ではなく、また、ほかの何教徒でもないから、そう言えるのです。
いいですか、すべての宗教では、人は神に仕えなければならない。
ところが福音では『神がイエスにおいて人間に仕える』のです。
なんと大きな違いではないですか」。

たらいはまた、イエスが人に仕えてくださる方法です。
主の関心は私たちが聖くなることです。
預言者イザヤの書に、「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです」とありますが、それは本当です。

神の前に立つとき、そのとおりです。
新約聖書は言います。
「汚れた者(は)…キリストと神との御国を相続することができません」。
だからこそ、イエスの血によるきよめが、私たちにとっていかに大切であるかが、わかるのです。

たらいはまた、イエスの弟子たちの基本姿勢です。
イエスは「わたしはあなたがたに模範を示したのです」と言われました。

イエスのものとされた人とは、自分中心の輪の中を回り続けることの悲惨に気づいた人です。
その人は聖霊の働きによって、他の人に仕えたいという切なる願いを与えられるのです。

主よ。
あなたのたらいを、私たちの紋章としてください。アーメン

God Bless You!!


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