2018年2月11日(日)の手紙

2018年2月11日(日)


『彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。』ルカによる福音書18章43節


ある患者が退院を許されました。
「先生、すっかり直ったと思っていいのですか」。
医者は答えます。
「完全な治癒というものはありません。ひとまず改善したということです」。

イエスが来られたのは私たちの人生を改善するためだ、と考える人々がたくさんいます。
が、それは誤解です。
聖書には「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と書かれています。

癒された人生。
それは良いものに違いありません。
きょうのみことばは、それが何であるかを教えています。

道端に目の見えない人がひとり、物ごいをしており、そこをイエスがお通りになりました。
そして奇蹟が起こります。
つまりこの人が主を信じるのです。
主へのこのような信仰は、私たちの心に自然に生まれるものではありません。
それは聖霊の働きです。

彼はイエスの前に立って、自分の苦悩を打ち明けました。
私たちが自分の罪を認め、主に打ち明けるとき、癒しの御業が始まります。

第一に、イエスのことばを受けて彼は「見るようになり」ました。
同じように、神のただ一言が私たちの目を開き、そしてすべてを新しく見るようにするのです。

「イエスについて行った」。
これが次に続きます。
古い民謡の一節に「衣についたイガのよう、私もあなたにつきたいわ」という熱烈なことばがありますが、この男の生涯には、新しい主と新しい方向とが与えられたのでした。
が、癒しはそこで終わりません。

それから次は何ですか。
「神をあがめ」た。
イエスによって癒された人々は、弔いの半旗ではなく心に口に賛美を持つ人たちです。

主よ。
「見よ。わたしはすべてを新しくする」との約束を、私たちにも実現してください。アーメン

God Bless You!!


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