2018年12月9日(日)の手紙

2018年12月9日(日)


『それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。」』マタイによる福音書21章1節~2節


この出来事は、エルサレム全市を興奮に巻き込むこととなりました。

主イエスへの歓呼の声が町中を埋め尽くします。
人々はこぞってこの方をたたえました。
そうです。
この出来事の結末は壮大なものとなりました。

が、その発端は、取るに足りない、たわいもないものでした。

二人の弟子が向こうの村に行ってろばを探すよう命令された。
ただそれだけのことでした。
けれども、このような発端こそが、主イエスに関することがらの典型であるのです。
全く静かに、ささやかに、ひそかに、事は始まります。

主が世に来られたとき、それは非公開さながらでした。
それは二、三人の羊飼いに知らされたにすぎません。
また、主の復活でさえも全く内密にさりげなく起こりました。

神の国のすべてのわざは、世界宣教や国内宣教やそのほか何であれ、目立たない発端から始まります。

主イエスも言われました。
「天の御国はからし種のようなものです。
…どんなタネよりも小さい」けれども、やがて驚くほどの力を持ち、大きな木にまでも成長するのだと。

この世のほとんどのことは、その全くの逆をたどります。
鳴り物入りの幕開けが、早晩、悲しい結末を迎えるのです。

神の知恵を知ろうとする人々にとって、これは大切なことです。
彼らは賑やかさにだまされず、小さな事柄の中に働く主イエスの御手にこそ、目を注ぐのです。

主よ。
あなたのみわざをはっきりと見定める目を、私たちにお与えください。アーメン

God Bless You!!


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