2018年12月18日(火)の手紙

2018年12月18日(火)


『イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。』ルカによる福音書19章36節


主イエスのエルサレム入城。
それはなんと輝かしい光景であったことでしょう。

けれども、

着物、上着を敷き詰めたこの出来事には、考えるべき別の一面もあります。

私は、一人の男がエルサレム旅行に着込んで来た最上の上着を地面に敷く様子を想像します。
いよいよイエスが通り過ぎて、彼は上着を拾い上げました。

泥とひづめの跡で上着はすっかり汚れています。
「妻が何と言うだろうか」。
そんな思いが頭をかすめました。

が、今の喜びを台なしにしたくはありません。
「まあ、いいだろう」と、彼はつぶやきました。
「主イエスは晴れ着以上のお方だから」。

こうして彼は立ち去りました。
大きな犠牲を払ったつもりでいたのです。
が、それは実にささいなものではなかったでしょうか。

イエスは主です。
私たちからは、単なる「何か」以上のものを期待するお方です。
お金、いけにえの動物、着物、またそのほかの「何か」を望む以上に、私たち自身を求めておられるのです。

それゆえにこそ主は、私たちのために十字架の上に死んで、私たちの罪の支払いを済ませ、私たちを買い戻してくださいました。
ルターは小数理問答の中で「…私が主のものとなるため」と述べています。

「キリスト教的であること」と「キリスト者であること」との間には、微妙な、しかし明確な違いがあります。

「私が主のものとなるため」。
ここにおられるのは闇の支配者ではなく、誰にもまさって私たちのために多くの犠牲を払われた主であること、それをはっきりと心に留めましょう。

ある賛美歌にこう歌われています。
「なんたる主。なんたる主。この方に仕える。なんたる特権」。

主よ。
「何か」をささげるだけではなく、主に私自身をささげる者とならせてください。アーメン

God Bless You!!


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