2018年12月16日(日)の手紙

2018年12月16日(日)


『そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て…イエスはそれに乗られた。すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き…。』マタイによる福音書21章6節~8節


イエスのエルサレム入城。
それはなんと輝かしい「アドベントの行進」だったことでしょうか。

今日もこのような「アドベントの行列」を見ることはできます。
が、ほとんどの場合、肝心のイエスは不在です。

きょうのみことばでは、主は行列の真ん中におられました。
そして彼をたたえるために、人々は最上のことをしました。
自分の上着を道に敷いたのです。

古代オリエントの人々の上着は、美しく織られた一枚の大きな布であったので、そんなことができたのです。

さて金持ちのすばらしい衣も、貧者の粗末な着物も、共に地面に敷き詰められました。
色とりどりの若者の着物も、馬追いの粗末な着物も、みな等しく「主イエスよ。あなたを愛します」と賛美するのでした。

ルターは、ある聖句をこう、訳しました。
「キリストを愛することは、すべての知識にまさる」。

ある婦人が私に、隣の主婦との争いを打ち明け、そしてこう言いました。
「先生。私はとてもキリスト者らしく育てられました。
でもお隣の奥さまは何一つ信じていらっしゃらないのですよ」。

いやな気がしました。
「キリスト者らしく育てられる」。
それでいて、救い主への燃える愛は跡形もない。
それがあったなら、「隣人」を愛したことでしょう。

主イエスへの愛を表して上着を道に広げたあの人たちの前に、私たちは恥じなければなりません。
彼らよりも私たちのほうが、主を愛すべき理由をはるかに多く持っているはずです。

私たちは彼らがまだ知り得なかったこと、主が「世の罪を取り除く神の小羊」であったこと、を知っているからです。
私たちの心にこのアドベントの賛美がわき起こりますように。

「主を愛そう。
主がまず我らを愛されたから」。

主よ。
私たちの冷淡をお赦しください。アーメン

God Bless You!!


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