2018年12月12日(水)の手紙

2018年12月12日(水)


『もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いなさい。』マタイによる福音書21章3節


役職や名誉職に、がんじがらめの人がいました。

ある日、老齢の主のしもベが彼を呼び寄せて忠告します。
「あなたは静まって聖書を読み、祈る時間がないのではないか」。

すると、その熱心な人は、ああだこうだと理由を挙げて弁解しました。
要するに、「私がいなければ、うまくいかないのだ」というのです。

年長のキリスト者は笑って言いました。
「聖書には一度だけ『主がお入用なのです』と書いてある。
しかもそれはろばのことだった」。

まさしくそのとおりです。
このみことばは、エルサレム入城用のろば一頭の調達のために、弟子たちを遣わすときに一度だけ、主イエスが使われたものでした。

この事実は私たちを謙遜にさせます。
主は私たちを必要となさらない。
たとい、だれ一人主に仕える者がいなくても、主の栄光に傷がつくことはないのです。

主は私たちを必要となさらない。
が、私たちには、主はなんと必要なお方でしょうか。

この事実を把握し、信仰をもって主を迎える人は、自分以上の何者かになろうとはしません。
何かをするとしても、ただ主のためです。

血をもって買い取ってくださった贖い主への愛、それが神の子どもたちを、主の用へと駆り立てるのです。
主は、私たちの愚かな高慢を用いることはできません。

十八世紀「啓蒙主義」の時代に、マクデブルクに一人の牧師がいました。
彼は主イエスの忠実なあかし人でした。

ある日の大集会で、一人のいわゆる「啓蒙された」人が、この牧師を揶揄して「彼はろばだ」と言い、それは町中の話題になりました。

次の日曜日、この信仰深い牧師は講壇に立って、きょうの箇所を朗読して言いました。
「私は確かにろばです。
が、このマクデブルクに主イエスをお乗せして来るろばでありたいと願います」。

主よ。
あなたは私たちを必要となさいませんが、私たちを、あなたに感謝し仕える者としてください。アーメン

God Bless You!!


a:131 t:1 y:0