2018年11月29日(木)の手紙

2018年11月29日(木)


『悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にも泰然としている。』箴言14章32節


「正しい人はなぜ恐れなく死ねるのか、その理由は」… 青年たちに、私はそう尋ねたことがあります。
そして良い答えを聞きました。

一人が言いました。
「その人が、日々の死に慣れているからです」。

主イエスのものとされた人々は、地上にある間、死の修練を積むのです。

神が彼らの最愛のものを取り上げてしまわれる。
すると、彼らは「どうぞ」と言います。
神が彼らの願いや計画をインクで抹消される。
すると彼らはつぶやかずに、自分の心を死なせます。

聖書は確かにイエスの弟子たちに関して、不気味なほどに思い切ったことばを語ります。
彼らは、「自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまった」と言うのです。

私たちには、十字架に死なれたただ一人の主がおられます。
この方に従う人は、「私」自身を死に明け渡すことを、日々学んでいるのです。
死の修練を積んでいるのです。

それゆえ真のキリスト者にとっては、息を引き取ることは、もはやさほどのことではありません。

さて、しかし、きょうのみことばは、それ以上のことを語っています。
ラテン語訳聖書(ヴルガータ)の翻訳は、実に的を射ています。

「正しい人は死ぬときにも望みがある」。

そうです。
主イエスにつく者とは、死からよみがえった方を主とする人です。
それゆえ、彼には生ける望みがあります。

そして死に臨んでも、その人は知っています。
「わがふるさとはかしこにあり。
そこに御使いの軍団がいて、大いなる主を賛美する…」。

もう一つ付け加えることがあります。
泰然として死を迎え得る人は、また、泰然として生きる人でもあるということです。

主よ。
あなたの死といのちにあずかり得ることを感謝いたします。アーメン

God Bless You!!


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