2018年11月13日(火)の手紙

2018年11月13日(火)


『主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥じとしない…。』ヘブル人への手紙2章11節


高等学校の生徒のころ、母が私に、弟を連れて町まで使いに行くよう、頼みました。
「弟はどこにいるの」と私が尋ねると、「外で待っているわ」とのことでした。

そのとおりに、弟は表で待っていましたが、泥まみれで大変な格好でした。
彼はまだ服装に気をつかう年齢ではなかったのです。
それにひきかえ、私はそろそろ見栄っぱりの年頃になっていました。
弟と一緒に歩くのが恥ずかしくてたまりませんでした。

さて主イエスは私たちをどうご覧になるでしょうか。
おそらく主の目に映る私たちは、私の目に映った弟の幾倍も、汚れ果てた存在なのでしょう。
邪悪で、利己的で、嘘つきで、愛のない、神を恐れない私たちのこれらの性質を、主はどう見られるでしょうか。

主が私たちを恥とされたとしても、私たちには文句の言いようがありません。
であるのに、「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」。

ヘブル書の著者がこう叫ぶのは、主イエスの愛に圧倒されたからです。
主イエスのものとなった人、また主の光のもとで自分を見る人は、朝ごとに新たに「主よ、感謝します。
あなたはいつも私を、あなたの兄弟としてくださいます」と祈るに違いありません。

ラテン語訳の聖書が「主は落ち着きを失わない」と訳すのは、まことに興味深いことです。

私たちはしばしば、キリスト者がキリストの名を汚すのを見て、落ち着きを失うことがあります。
が、そのようなときに私たちは、自分たちの愛のなさ、偽り、争いが、いかに主の落ち着きを奪い去るのに充分であったかを、是非とも思い起こすべきです。

しかし、主は落ち着きを失う方ではありません。
何度でも繰り返し、主は私たちを兄弟と呼んでくださいます。
それだけでも驚きではありませんか。

主よ。
まるで御名に値しない私たちを、はっきりとご自分のものと決めていてくださることを、感謝いたします。アーメン

God Bless You!!


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