2018年11月11日(日)の手紙

2018年11月11日(日)


『平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。』テサロニケ人への第一の手紙5章23節


「全く聖なるものとする」のですか。
それは願いが大きすぎはしないでしょうか。

そもそも、そんなことがあり得るでしょうか。
偉大な聖徒たちでさえも、罪を犯したのです。

モーセがカナンの地に入れなかったのは、彼が主に栄誉を帰さなかったためです。
ペテロでさえも、無残にも主を拒んだのです。
これらの聖徒たちが主に背いたとすれば、いったい私たちが「全く聖なるもの」になれるはずがあるでしょうか。

「全く聖なるもの」。
それはだれにとっても衝撃的です。
事実、私の毎日は「聖なる」ものでしょうか。
また、職場での生活は、信仰とどれほど関係があるでしょうか。

そして神は本当に私たちを別の種類の人間に造り上げるおつもりなのでしょうか。
政治上の立場は信仰とどう関係しますか。

「全く聖なるものとする」とは、生活の全領域が聖められることです。
それは願いが大きすぎはしないでしょうか。

さて、しかし注目すべきことは、「あなたがたが自分で聖なるものとなるべきだ」と語られてはいないこ
とです。
私たちの聖くない心では、それは断じて不可能なことです。
ところが聖書は、「平和の神ご自身が」と言うのです。

神が、神のみが、それをできるし、また、なさろうとするのです。
そして、全く聖なるものとすることは、ご自分の民に対する神のご計画なのです。

それゆえ神は私たちをご自分のものにしようとして、イエス・キリストによる高価な支払いをしてくださいました。
それゆえにまた、聖霊は私たちのうちに働かれるのです。

この神のご計画においては、私たちは何ができるのかではなく、神は、御子の血によって、また、ご自分の聖霊によって、私たちに何をしてくださるのか、が問題なのです。

主よ。
あなたの聖霊の働きに心を開きます。アーメン

God Bless You!!


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