2018年10月7日(日)の手紙

2018年10月7日(日)


『さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。この人は、イエスが…来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。』ヨハネによる福音書4章46節~47節


「我々の階層には、そんなことをする人はいない」。
役人がイエスとやらを呼びに行った、との知らせが広がると、彼の家ではこう語られました。

王室の役人。
彼はヘロデ王宮の高官でした。
ローマの占領下、王の立場がさほど強くないならばなおのこと、王や役人は高慢に振舞うのでした。
だからこそ、この階層の人々がイエスを迎えることは、考えられないことでした。

庶民がするのならば、どうぞ。
しかし「我々には、そんな辻説法師は用がない」。

こんな役人さん方は今日も多くいます。
彼らはイエスについてどうこう言うつもりはありません。
が、イエスが自分たちの生活や考えに登場することもまた、あり得ないのです。

苦悩に見舞われない限り、人はみなそうです。
が、跡継ぎ息子が死にかけているとなれば、状況は一変します。

高慢も自信も役には立ちません。
まさに祈りたい一心です。

が、神はいったいどこにおられるのか。

神がイエスにあってこの世に来られた、ということは本当なのか。
本当ならば、助けを求めなければ…。

この役人にも、ひとつの世界観がありました。
が、それは順風の日々に当てはまるもので、嵐の前にはひとたまりもなかったのです。
けれどもイエスを救い主とする人々は、その人生に破れが生じてもなお、堅く立つ主を持ち続けることができます。

私たちは、自分の信仰や思想が、晴天の日だけのものでないかどうかを、よく検討する必要があります。
もしもそれが晴れの日だけのものであるならば、早速に方向転換をして、悔い改めようではありませんか。

主よ。どんな嵐にも動かない岩である主に、感謝いたします。アーメン

God Bless You!!

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