2018年10月10日(水)の手紙

2018年10月10日(水)


『彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。…そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。』ヨハネによる福音書4章51節、53節


ちょっと想像してみましょう。

敷ヶ月後に、役人の家で小さな会合が開かれました。
間もなく話題は、世間で評判のイエスへと移ります。

仲間の数人が、顔をゆがめて馬鹿にして言いました。
「ふん、あのイエスは、庶民の間では人気があるらしいな。
まあ、知識人には無意味だが」。

ところが他のひとりが、「それにしてもイエスの評判は大したものだ」と答えました。

すると、先のひとりが半ば怒って、「イエスは、自分において神がこの世に来たのだと言っている。
ばかげたことだ」。

後ろに座った、この家の息子が笑いました。
ひとりがそれに気づいて、不機嫌そうに問い詰めました。
「なぜ笑うのだ。おとなの話だ」。

そこで少年はきっぱりと答えます。
「ぼくはイエスを信じている。
イエスはぼくを死から救ってくださった」。

同じことは、世界中の真のキリスト者にも起こっています。
イエスやキリスト教について、もっともらしい意見や学説が語られるとき、それに対して、彼らキリスト者たちは、「主は私を死から救ってくださった」という明快な証言と経験以外に語るべきことばを持たないのです。

聖書中のイエスに関する証言も、同じように語っています。
「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」。

使徒パウロもこう言いました。
「罪から来る報酬は死です。
しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」。

イエスに関する、人々の意見が問題なのではありません。
その救いを自分の経験としたかどうかが問題です。

主よ。
経験し得る救いを感謝いたします。アーメン

God Bless You!!


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