2018年1月30日(火)の手紙

2018年1月30日(火)


『群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。』ルカによる福音書18章36節


この男の気持ちがわかります。
彼は人々と経験を共有したかったのです。
多くの人々が追いかけるものを、自分にも知らせて欲しいと望んだのです。
そう望まない人がいるでしょうか。

私たちはみな、人生に大きな望みを抱きます。
また、人が何かに殺到すると、自分もそれに加わりたいと願うものです。
何にでも「加わり」たい。
この願望が多くの若者を、この世と永遠との両方での滅びへと導くのです。

目の見えない物乞いはエリコの道端に座っていました。
ある日、大勢の人の波が押し寄せる物音を聞いて、彼はすぐに叫び声をあげ、「どうしたのだ」と尋ねます。

経験を分かちあって欲しいと願う彼に、人々はすぐ気がつきました。
まさかこの群衆の中に、「わたしはいのちです」と言い得る、ただひとりの、栄光に富む方がいるとは、彼には思いもよりませんでした。

どれほど聞き耳を立てたとしても、目の見えない彼にはわかりません。
が、イエスだと聞くやいなや、たちまちに手を伸ばして、「いのち」を見いだします。
それは本当のいのちです。
そして彼は、救い主、イエスを見いだしたのです。

「わたしが来たのは、羊がいのちを得、豊かに持つためです」。
ご自分についてそう仰せになるイエスに、私たちが、いのちを求める途上でお会いするかどう 、これは大問題です。
もしもお会いしないならば、この世が「いのち」と呼ぶ、実は死の息をひそめるものに、捕らわれ続けなければなりません。

「生きるための何かが欲しい」。
物乞いをした男にこそ、同時に真の人間性が宿っていたのです。

私たちは「生きるための何か」を、ずいぶんと低く見積もるものです。
が、イエス・キリストにあるならば、だれもが真の「いのち」を持つことを許されます。

主よ。
私たちがいのちを見過ごしにして一生を終わることがありませんように。アーメン

God Bless You!!


a:184 t:1 y:1