2018年1月19日(金)の手紙

2018年1月19日(金)


『イエスは… 神… に愛された。』ルカによる福音書2章52節


十二歳から三十歳までを、イエスはどのように生きられたのでしょうか。
私たちが知り得るのは、「ますます知恵が進み、背たけ(または、年)も大きくなり、神と人とに愛された」ということです。

それだけですか。
そうです。
しかし、このたったの一節がまことに豊かに語るのです。
それは見かけほどには無内容ではありません。
「神に愛された」。
気に入られたというほどの意味です。

せっかちな現代人は言います。
「二千年前に、神に気に入られた男がひとりいたってかまわないだろう。
しかし、それについてくどくどと、ことばを費やす必要がどこにあるのか」。

確かに、私たちがなお生きていられるのは、イエスに対する神の好意のおかげであるとは、いかにも愚かと見えるでしょう。
しかし、聖書がそう語るのならば、それは真実です。
なぜなら詩篇にはこう言われるからです。

「主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
彼らはみな離れて行き、…善を行う者はいない。ひとりもいない」。
それゆえに世は、いつさばかれ、いつ滅びても仕方がありません。

けれどもこの時、神はただひとりのお方イエスに目を留められます。
神はこの方を良しとすることができます。
そしてそのおかげで、神は恵み深く、また、忍耐深くあられるのです。

もしも私たちがイエスを救い主として迎えるならば、神の恵みは私たちの生涯にとってどれほど大いなるものとなることでしょうか。
パウロは言いました。
私たちは、イエスにあって、神に「喜ばれる」者たちなのだと。

主イエスよ。
あなたの独自性を私たちに認めさせ、信じさせてください。アーメン

God Bless You!!


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