2018年1月14日(日)の手紙

2018年1月14日(日)


『まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。』ルカの福音書2章48節


さんざん捜し回った挙句、マリヤは12歳のイエスが神殿におられるのを見つけて、叱って言いました。
「なぜ私たちにこんなことをしたのです」。

イエスの答えを聞いても、彼女にはその意味がわかりませんでした。
12歳のイエスが早くも、なんの弁明をも必要としない主であられることを、彼女はこうして学ばなければなりませんでした。

マリヤはこの先、幾たびも尋ねます。
「なぜ私たちにこんなことを……」。

十字架の傍らに立って、死んで行かれるイエスを見つつ、なおその意味を悟り得ずに、彼女は同じ問いを繰り返したことでしょう。
それは、主が暗黒の道を行かせようとなさるときに、弟子たちが繰り返した問いでもありました。

同じくキリスト者も、主に見捨てられ、罪の力が増し加わると見たときに、何度も尋ねました。
敗北にまみれ、何とかしてイエスの勝利にあずかりたいと願うときに、彼らはしばしば尋ねました。
そして、その問いにはいつも何がしかの非難が込められるのです。

非難。
それはイエスを真に生涯の主とした私たちからは、出て来るはずのないものですが。

この非難は、私たちが主の十字架のもとに自分を置くときに、消え去ります。
そして、いばらの冠をかぶって死なれた、力ある主を仰ぎ見るときに、尋ねざるをえなくなります。
「主よ、聖書はあなたが私たちのために木にかけられたと言います。
なぜ私たちにこんなことをしたのですか」。

すると主は答えてくださいます。
「わたしはあなたがたが、自分の罪のために神のさばきの前に立つのを見たのです。
しかし、あなたがたを愛するわたしは、あなたがたの滅びを望みません。
だからあなたがたに代わって、神の御怒りとさばきを受けたのです。
あなたがたが自由を得るために、わたしはこんなことをあなたがたにしたのです」。

それを聞き、信じる人は、再び尋ねることをしないでしょう。

主よ。
幾たび感謝しても足りません。アーメン

God Bless You!!


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