2018年1月12日(金)の手紙

2018年1月12日(金)


『見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。』ルカの福音書2章45節


人混みで子どもが迷子になる。
それはよくあることです。
マリヤとヨセフが12歳のイエスを、祭りににぎわうエルサレムの町で見失ったとしても、珍しいことではありません。

しかし、やはりそれは特別のことでした。
ただの子どもにではなく、イエスに関わることですから。

両親をご覧なさい。
彼らはイエスを見失いました。
それはまさしく現代の姿ではありませんか。
エルサレムに神殿があったように、世界中に教会堂はあります。
かしこに犠牲や祭儀が存在したように、ここにも礼拝の儀式はあります。

しかし、イエスは見失われているのです。
そしてイエスがおられないところでは、神の恵みも、私たちのたましいを知ってくださる良い羊飼いも、見失われます。

両親はイエスを捜しました。
しかし、彼らがイエスを必要としたからではなく、子どもが彼らを求めていると思ったからです。
これもまた、現代の教会にたとえることができます。

人々はキリスト教を支え、助けようと一生懸命です。
イエスには私たちの助けが必要なのだと考えるからです。
それは全くの見当違いです。
このことに気がつけば、私たちは本気になってイエスを見つけようとするでしょう。

主は言われます。
「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」と。

イエスを捜し求めましょう。
主が私たちを必要とするからではなく、私たちが主を必要とするからです。

イエスを捜し求めましょう。
イエスなしには、神を、神の恵みを、また、私たちの永遠の救いを、私たちは失うからです。

イエスを捜し求めましょう。
この方こそは、罪を赦し、神との平和を与え、私たちの心を新しくすることのできる、ただひとりの方です。

主イエスよ。
あなたがまず、私たちを捜し出してくださいました。
感謝いたします。アーメン

God Bless You!!


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