2018年1月11日(木)の手紙

2018年1月11日(木)


『(両親は)イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから 捜し回ったが、見つからなかった。』ルカの福音書2章44節~45節


エルサレムは、大通りも広場も大変な混みようでした。
過越の祭りが終わったのです。
その雑踏でマリヤとヨセフは12歳のイエスを見失います。
大丈夫だとヨセフは言いました。
「息子はナザレから来た一行と、先を歩いているのだろう」。
ふたりはそのまま帰路につきました。

さて彼らはナザレから来た一行に追いつくと真っ先に「イエスは……」と尋ねます。
なんということか、イエスはおられなかったのです。

ある神の人の伝記に、彼は若い日に神を求め、心の平和を求めたとあります。
ある日曜日、散歩の途中に教会の前を通ると、ちょうど礼拝の始まる鐘が鳴りました。
「ここには天国への旅の一行がいるのだ」と思い、彼は中に入ります。
しかし、そこでふたりの人が小声で争うのを聞いて、驚きます。
また、少女たちが若者の注意を引こうとして、くすくす笑うのが見えました。

賛美は貧弱でした。
「救われた人たちが、こんなふうに歌うだろうか」と彼は思いました。
やがて始まった説教が、「信仰と人間の知恵とのごった煮であることがわかると、彼はそっと教会堂を抜け出したのでした。
イエスがともにおられない一行であったのです。

さて私たちは自らに問います。
私たちの家庭に、私たちの友達付き合いに、私たちキリスト者の一行の中に、イエスはおられるだろうか。
私たちは自分の救い主を心の中に見いだしうる者たちなのだろうか。
使徒の働き1章をもう一度読みましょう。
それは最初のキリスト教会の姿です。
その一行の中に、イエスは確かにおられました。
私たちの場合もそうあるべきです。

主イエスよ。
あなたがともにいますことを、切に願います。アーメン

God Bless You!!


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