2017年3月4日(土)
『イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。』ルカによる福音書7章39節
多くのことが変わるのを見てきたけれど、どれも気に入らないと言った人がいた。
おそらく、おおげさに言ったのだろうけれど、変化を好まないという点については、多くの人が同意するのかもしれない。
自分の習慣や態度を改めなくてはならないなら、なおさらだ。
これは、パリサイ人がイエス様を嫌った理由のひとつ。
イエス様は、パリサイ人の善行と独善という長年のしきたりに異を唱えられた。
ルカによる福音書7章の出来事を見てみよう。
町の「罪人」である女性が、町の「聖人」である人の家に入って、イエス様に惜しみない愛を注ぎだした。
パリサイ人シモンは、これを苦々しく思っていた。
イエス様は、シモンの独善的な思いを見透かし、その間違った見解にすぐさま異を唱えるために、ふたりの債務者のたとえ話をされた。
ひとりは大きな借金を免除され、もう一方は少額の借金を免除されたが、「このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」と尋ねられた。
当然、より多く赦してもらった方だ。
そこでイエス様は、シモンの「自分は十分に善い人だ」という態度を捉えて、「少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」と言われたのだ。
イエス様の指摘は、明らかだ。
自分は十分に善い人だと安心するようになると、「多くを赦された」者であることを忘れてしまい、イエス様に対する愛が薄れてしまう。
そのようになったとしたら、覚悟ができているか否かに関わらず、変化の時だと言えるだろう。
神が何かを変えようとなさる時は、大抵、まず私達を変えることから始められるからだ。
God Bless You!!
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