2017年10月15日(日)の手紙

2017年10月15日(日)

『ダビデの歌 主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。』詩篇27篇1節


私たちは、生活を聖俗に区分しがちだ。

一日の多くの時間を、仕事や用事、家事や子どの世話などに取られる中で、何とかして「霊的」な時間、すなわち個人のデボーションやスモールグループ、また教会のための時間を確保しようとする。

だけど詩篇には、そのような分け隔てはない。
ダビデや他の詩人たちは、神を生活の主軸にしていたので、すべてのことは神とつながっていた。
彼らにとって、神を礼拝することは生活の中心だった。
礼拝は、諸々の活動を再開するために、まずやっておかなければならないという類のものではなかった。

生活のあらゆる細部に「神に入っていただく」そのプロセスを学ぶ必要が私たちにはある。
神の真の居場所はすべての中心だと、私たちが確認していく過程において、詩篇はひとつのステップになる。

詩篇の作者たちには、神を求める強く切迫した思い、飢え渇きがあった。
だけど、私たちの神に対する求めは、貧血症であるかのように弱々しいのだ。

彼らは疲れきった鹿が水をあえぎ求めるように、舌を突き出して神を求めていた。
夜は「主の麗しさ」を夢見ながら、横になった。
他の場所で千年過ごすよりも、むしろ神の御前で一日を過ごしたいと思っていた。

詩篇の作者たちは、「信仰の上級コース」に入っていった。
私たちも詩篇を読むなら、彼らの影響を幾分なりとも受けることができるかもしれない。

God Bless You!!


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