2016年10月28日(金)
『ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。』使徒行伝3章6節
イエス様さえいてくだされば、それで本当に十分だろうか。
多くのクリスチャンは、こう自らに問いかけるべきだ。
私達は、ものを十分に持っている。
その一方で、イエス様に十分頼っているだろうか。
頼りにしているのは、実は、自分の持ち物ではないだろうか。
人生の優先順位が正しく、他人の入用に対して助力を惜しまないのであれば、富を持つ事を聖書はとがめていない。
一方で、生活に困らないような人は、自分を支えているのは、財布の中身ではなくイエス様だという事を思い出さなくてはならない。
エルサレムの神殿の門で、物乞いをしていた足の不自由な男の話を考えてみよう。
この男は、ペテロに金銭を求めたけれど、ペテロは「金銀はわたしには無い。
しかし、わたしにあるものをあげよう。
ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と答えた。
この男性は、問題解決に必要なものはお金だと思っていた。
だけど、ペテロは、それがイエス様だと示したのだ。
その事実は、今でも変わらない。
福音を国の内外で宣べ伝えている中国人クリスチャンから学ぶべき事がある。
彼らは言う。
「私達には、大きく華やかな伝道集会をする財力はありません。
私達が人々のためにできる事は、イエス様を与える事です。
それがすべき事です。」
中国のクリスチャンは、イエス様さえいてくだされば、それで十分だと言う。
貧しい人にとって、イエス様は十分なお方だ。
あなたにとってはどうだろう。
God Bless You!!
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