2012年10月6日(土)
『それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか』マタイによる福音書27章22節
イエス様がピラトの前に立った時、イエス様には恐れはなかった。
怒りもない。
パニック寸前まで追い詰められているわけでもない。
なぜなら、イエス様にとって、何の驚きもなかったからだ。
イエス様は、ご自分の時を知っておられた。
その時が来た事をご存じだったのだ。
だけどピラトにとっては、そうじゃなかった。
イエス様は、ご自分の国はこの世のものではないと、きっぱりと宣言された。
ピラトはイエス様の声を聞くべきだった。
そして選択すべきだったのだ。
イエス様の声。
どんな雑踏の中でも聞き分けられる、他にない声。
イエス様はおだてる事も、泣きつく事もない。
ありのままに語られる。
ピラトは、選択をしないですむと思った。
イエス様の件については手を引こうと。
実際に、ピラトは群衆の目の前で、水を取り寄せ、手を洗って「この人の血について、私には責任がない。自分達で始末するがよい」と言った。
彼は、どちらにもくみせず、傍観者の態度を取る事に決めたのだ。
だけど、選択をしない事で、ピラトは選択をしたのである。
自分が傍観者の立場を取る事で、イエス様を十字架に引き渡したのだ。
彼は、神の恵みを求めるよりも、手を洗う水の鉢を求めた。
イエス様にとどまるように求めるかわりに、イエス様を追いやった。
イエス様の声に耳を傾けるより、群衆の声を聞き入れてしまった。
あなたがもし、傍観者の立場を「選択」する時、イエス様を再び十字架に引き渡す事になる。
だから私達の「選択」は、とても大切な事だ。
私達は、神の恵みを求める事を選択しよう。
イエス様にとどまる事を選択しよう。
イエス様の声に耳を傾ける事を選択しよう。
伝説によると、ピラトの妻はクリスチャンになったと言われている。
またピラトは、奥深い山奥に住み、湖の水面に姿を映し出しては、両手を水につけて赦しを求め続けたという。
自分 の犯した罪を洗い流す努力を永遠に続けるように…。
彼がなした悪の報いではなく、思いやりをかけられなかった、その償いのために…。
God Bless You!!
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