2012年1月8日(日)

2012年1月8日(日)


『わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない』ヘブル人への手紙8章12節


神は私達の罪を見られた時に、怒られたんじゃない。
憐れまれたのだ。
そしてひとつの決断をされた。
罪を罰する事だ。

神は人の姿となられた。
なぜなら神は霊だから、霊のままでは死ねないから。
そして全人類の罪をご自分に着せ、十字架に架かられた。
私達の罪が、罰せられた瞬間だ。

その結果は、私達の考えを遥かに超越している。
私達はもう二度と罪に定められる事がない。
それだけじゃない。
イエス様を信じる者は義とされるのだ。

義には、三つの意味が含まれている。
神は、私達の全部の罪を赦してくださった。
神は、私達が罪を犯した事がない者のように見てくださる。
神は、私達が良い事ばっかりしてきた者のように見てくださる。
これが、義とされた者の姿だ。

イエス様が水のバプテスマを受けられた時、天が開けて聖霊が鳩のように降り、そして声が聞こえてきた。
「これは私の愛する子、私の心にかなう者である」。

何と言う事だろう。
神は今、この言葉を私達に語りかけておられるのだ。
「これは私の愛する子、私の心にかなう者である」。
神の子とされるとはこう言う事だ。

私達は思う。
「それはとんでもない」と。
でも神は、イエス様の手を刺し抜いた釘の穴から私達を見ておられる。
イエス様を通して神が私達を見られる時、罪は恵みへと変えられていく。

だから、二度と救いを疑う必要はない。
二度と裁かれる自分を想像する必要もない。
まして地獄に行く自分を想像する必要なんてない。
それはイエス様の十字架を台無しにする事だから。

God Bless You!!


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