2011年12月26日(月)

2011年12月26日(月)


『しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである』ローマ人への手紙5章8節


イエス様は語られる。
「私があなたを愛さなくなる事などあるだろうか」と。

神は人となってこの世に来られた。
スーパーヒーローとしてじゃなく、普通の人として。

私達は時々思うかも知れない。
「イエス様に、私の気持ちなんてわからない」って。

それはとんでもない誤解だ。
イエス様は私達が経験したあらゆる感情をすでに経験済みだ。

イエス様が生まれて、最初に寝かされたのは、暖かいベッドじゃなかった。
「飼い葉おけ」の中だ。
主は惨めさを知っている。
貧しさを知っている。

少し成長して、泥だらけになって遊んでいる少年がいる。
それは神だ。
喜びを知っている。
無邪気さを知っている。
走って転んで泣いている少年がいる。
それは神だ。
痛みを知っている。
失敗を知っている。
大工の息子だってからかわれて、傷ついている少年がいる。
それは神だ。
人の心の醜さを知っている。

少年は思春期を通り、大人になった。
とたんに彼は人々から賞賛され、また憎まれた。
そして最後には「憎しみ」が勝った。
イエス様に待っていたのは十字架だった。

でもイエス様は、自ら十字架に架かられたのだ。
ご自分で十字架を選ばれたのだ。
サタンはまんまとしてやったりと思った。
でもイエス様は十字架の死とその後の復活にすべての勝利がある事を知っておられた。

イエス様がどれほど私達を愛しておられるか、本当に私達はわかっていない。
まだ私達がイエス様の事を知らないその時から、すでに私達を愛しておられた。
「宗教なんて大嫌いだ」と言って、イエス様をただの聖人に祭り上げたその時も、その愛は変わらなかった。

私達は見なければならない。
ざらついた木肌の十字架の上に、釘に刺しつらぬかれ、血を流している自分の姿を。
「罪の支払う報酬は死」私達の罪は、これ程までのものなのだ。
その姿に目をそらし、もう一度目を上げた時、十字架にかかっているのは、もはや自分ではなくイエス様に変わっていた。

身体じゅうに唾を吐きかけられ、罪にまみれたイエス様の姿。
本当は私達の姿。

イエス様は、私達の罪を背負って死を歩まれた。
そして今私達は、イエス様の復活の命を生きている。

これ以上の愛を私は知らない。

God Bless You!!


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