12月28日(日)の手紙


『ああ、わたしの頭が水となり、わたしの目が涙の泉となればよいのに。そうすれば、わたしは民の娘の殺された者のために昼も夜も嘆くことができる』エレミヤ書9章1節


物語の架空の人に同情して涙するのは、他愛のない事だけれど、現実に存在する人達を見て感じる悲しみは、深刻なものだ。

強情で自らの罪を悟らない人に対して心を痛め、迷っている人を見て悲しむ涙は、エルサレムの背きに対して流されたイエス様の涙に通じるものがある。

神様と神様の愛からどんどん離れていく民を見て、エレミヤは涙を流さなければと思った。
民が悪くなっていき、神様の心が痛んでいるのを感じたからだ。
嘆く事だけが、現状にふさわしい反応だった。

堕落した世界のありさまを目にし、迷っている人々を自らの周りに見る時、神様の心を鏡のように映し出す心を持てるように。
そして、失われた世界のために嘆き悲しみ、迷っている人達のために、愛の手を差し伸べる事ができるように。

真の同情とは、行動を伴う愛だから。

God Bless You!!


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