11月5日(木)の手紙


2015年11月5日(木)

『そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した』ルカによる福音書15章20節


放蕩息子の話は宴会の場面で終わっていて、主人公を家名に傷をつけたろくでなしに描いている。
だけど、誰にとっても望ましくないと判断される人が、神にとっては無限に望ましい人であり、そのひとりが神に向く時、宴会が始まる。

旧約聖書のレビ記の律法は、接触感染しないように注意していた。
ある種の動物、死体、病人に接触すると汚れた者となった。

だけどイエス様は、そのプロセスを逆転させられた。
イエス様は、汚れるよりも、むしろ他の人を完全な者とした。

旧約聖書の律法の廃棄ではなく、成就をイエス様の中に感じる。
神は神聖な人を、神聖を汚す人から切り離し、きよいものをきよくないものから切り離す事によって被造物を神聖にしていた。

だけどイエス様は、原理を破棄するのではなく、むしろその源を変えられた。

神の恵みによって、私達自身が神の聖さの担い手となる事ができる。
神は今や私達の中に住んでおられるから。
きよくない世界のただ中で、私達はイエス様がされたように、きよさの源となる方法を探しながら生きていける。

病人や障がい者も汚染の危険をはらんだ者ではなく、神の憐れみを讃える貯水池となる可能性を秘めている。
私達はその憐れみを広げていくように、恵みを運ぶ者となるように求められている。
神の恵みが届かないところにいる人などいないのだから。

God Bless You!!


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