366日の手紙
2014年11月16日(日)
『「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである』テモテへの第一の手紙1章15節
彼は、天に召される数日前の友を前にこう言った。
「私は、子どもの頃、花を盗んだ事があります。
小学校の通学路に公園があって、ある日、私は、アイリスの花を母親にあげようと、切ってしまったのです。
その様子を男の子達が見ていて、警察に言いつけてやると言いました。
それからしばらくは、警察に捕まるのではないかとビクビクしていました」。
その話を聴くと、彼女は彼の手にそっと触れて、「私もした事があるわ」と優しくつぶやいた。
「私もした事があります」。
これこそが、人の罪を聞いたり見たりした時の態度じゃないだろうか。
まったく同じ罪を犯した訳ではないかも知れない。
だけど、すべての罪は悪いのだ。
神様の赦しが、必要なのだ。
自分は罪で腐っているという自己認識は、常に情け深くあるために必要だと、ジョン・ニュートンは語っている。
私達は、無慈悲な僕になりたくない。
「私もした事があります」ので、情けをかける人でありたい。
神様が憐れみをかけてくださったのだから、私達もそうありたい。
God Bless You!!
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