1月24日(土)の手紙


『兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである』ピリピ人への手紙3章13節~14節


過去の罪に捕らわれているクリスチャンがいる。
自分の罪の代価をイエス様が支払ってくださった事を頭では分かっているのに、なぜか、罪悪感を手放せない。

まるで、キリストの受難だけでは充分ではなく、過去の罪を常に嘆き苦しむ事で、自分も貢献しないといけないと思っているかのようだ。
自分の過去を、保存しておきたおいのだ。
何と、愚かな事だろう。

パウロは、そんな事はしなかった。
キリストの死によって、すべての罪の代価が支払われ、神様の御前で有罪の記録は完全に消し去られた事を受け入れた。

過去の事は、自分の記憶にはっきり残っているけれど、それによって落ち込む事はない。
確かに、私達に起こった事は、「記憶」という名の書棚に保存されている。
だけど、キリストの贖いは、私達を罪悪感から完全に解放してくれる。

神様は、ご自分の子ども達に、罪悪感という重荷を負わせる事を望んでおられる訳ではない。
それは、神様の御心ではない。

God Bless You!!


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